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〈18〉



「そんな研究は今ではもうおこなわれていない。 私の在職中もだ」
「おかしいですね。 あなたは四年前、夕日化成の東口選手に臨床神経学部で調剤した薬
 を投与して驚異的な記録を出させている。 あの薬は何だったんですか? それまで平
 凡な記録しか出せなかった選手がいきなり世界新記録を出しています。 ただのドーピ
 ングであったとは思えません」
「……東口君か、彼には申し訳ない事をしたと思っている」
「詳しく話して下さい」
「……四年前、私の教え子で夕日化成に就職した者がいて、私を訪ねて来た。 同じ社に
 東口というランナーがいて、彼をどうしてもオリンピックに出場させてやりたい、彼に
 は癌におかされている母親がいて、後半年しか余命が無い。 その母親に息子の晴れ姿
 を見せてやりたいのだと言って来た。 その教え子もやはり君と同じように私が昔の薬
 研にいた事を知っていた。 私ならマラソンランナーの記録を飛躍的に向上させられる
 薬を作る事が出来るかもしれないと思って尋ねて来たのだ。 私は最初は断った。 も
 ちろん私はそんな研究はしていないし、昔の研究書類も今はもう残っていない。 それ
 に、もしなんらかの薬を使ったとして、それが後でばれれば、いくら良い記録が出たと
 ころで選手は失格、記録は無効となる。 そんな事をしても意味が無い、と言ったのだ
 が、彼は選考レースは公式戦ではないから薬物検査は無いと言った。 その時の私は軽
 率だった。 超人伝説の中に生きている研究者として憧憬を受けている事に快さを感じ
 ていたのかもしれない。 超人的とはいかなくても、何らかの手伝いをする事によって
 東口君がオリンピックに出場する事が出来れば、表だっては出ないだろうが、さらに超
 人伝説の中に生き続けられると思ってしまったのだ。 良い記録が出なかったとしても
 しょせん超人研究など存在しないのだから、あてにする方が間違っているのだと居直る
 事が出来る。 と軽い気持ちで、その教え子にアンフェタミンとビタミン類、炭水化物
 を液状にしたものを渡した。 アンフェタミンは中枢神経の興奮剤だし炭水化物は運動
 中の熱源になる。 これで少しは記録の向上になる。 東口君自身はその薬の内容を知
 らず、超人伝説を信じ、その薬そのものであると信じて服用すれば、それが暗示効果と
 なり、心理面でも記録向上に寄与すると思った。 いざレースが始まってみると、東口
 君は驚くべき力を出した。 予想以上の結果が出てしまった。 君も知っているだろう
 が、あまりの好記録であつたために薬物検査をされてしまい、東口君は陸連を追われる
 はめになった」
「でも、おかしいんじゃないですか? アンフェタミンは心理的限界を高めても生理的限
 界を越えるなんて事は無いでしょう。 東口選手の記録は人間の常識を越えているんじ
 ゃないですか。 それだけだなんて思えないのですが」
「君には医学的な知識があるみたいだな、 医師か? 医学生か?」
「そんな事はどうでもいい事です。 本当は東口選手の筋力の根本的なアップをおこなっ
 たのではないのですか?」
「違う。 東口君の生理的限界が元々高かったのだ。 あのレースで出た記録は東口君自
 身が本当に努力し、出そうと思えば薬の力など借りずとも出す事が出来た。 彼には元
 々その資質があったのだ。 それを、私が軽率な事をしてしまったばかりに、その資質
 までも潰してしまった。 私が広都大を辞職したのは、世間を騒がせた事に対する責任
 ではない。 東口君に対する個人的な責任からのものだ。 私は彼の将来を潰してしま
 った」
声のトーンが沈んだ。
嘘をついているようには思えなかった。
「四年前の事件がなければ、東口選手は世界的なランナーになっていた、という事ですか」
「そうだ。 彼にはその資質があったのだ」
「あなたは臨床神経学研の所長でしたね」
「そうだ」
「臨床神経学研では昔の軍事下での薬研の研究を継いだと聞いています。 所長のあなた
 が薬研での超人研究の内容を全く知らないとも思えません。 なんらかの記録が残って
 いて、それを元にした薬剤を調合た。 一時的なドーピングなどではなく、もっと根本
 的な体質改善か筋力増強の薬ではなかったかと僕は見ていたのですが」
「そんな事は何もしていない。 あれは彼の資質だ。 それに、臨床神経学研では薬研の
 その当時の研究は継いでいない。 いや、継げなかったのだ。 一時期、臨研でもかつ
 ての超人研究を再開しようという動きはあったが実現しなかった。 超人研究は今日で
 はもう伝説として残っているだけだ」
僕は中浜に手で合図を送った。
中浜はまた大きな音をさせて手を打ち、宣子がくぐもった声で、
「きゃっ、いたいっ」
と声を出した。
「やめろっ! 本当の事だっ。 麻理江には手を出さないでくれっ」
効果てきめん。
「東口選手に投与した本当の薬は?」
語気を強めて言う。
ここが落としどころだ。
「信じてくれ、あれは本当に東口君の力だ」
「それじゃ、話の内容を変えましょう。 麻理江さんを傷つけるような事はしたくありま
せんから」
「頼む。 手を出さないでくれ。 麻理江を無事に帰してくれるなら、私の知る限りの事
 を話そう」
「では答えて下さい。 戦時中の薬研での研究内容を。 そして終戦間近におこなわれた
 研究成果発表の様子を」
 

壱岐教授は当時の真実を知る生き証人だ。
その言葉は言い伝えではない。
六十年間閉ざされていた真実が語られれば、それはもはや伝説ではなくなる。
超人性を我が手に収め、すでに蘇った超人にも肉薄出来る。

「どう話せばいいのか。 私が広都大の薬物研究所に研究員として入ったのは昭和十九年
 だった。 当時の医科では二年間基礎講習を受けて、その成績の上位者が薬研に行くと
 いう事になっていた。 そこに配置されるという事はエリートコースだった。 私は有
 頂天で薬研に入った。 当時の薬研の所長は南宗一郎という人で、陸軍省の息がかかっ
 ていた医学者というよりは生え抜きの軍人のような人だった。 所内を軍隊的な厳しさ
 で統治していた人だった。 薬研での研究内容は主に薬物による中枢神経の反応の検査
 や筋肉の構造の解析だった。 これらはもちろん軍事目的のもので、治療のためのもの
 とは異なっていた。 今はもう取り壊されているが、薬研の建物は六道記念館のすぐ隣
 にあった。 建物はロの字の形をしていて、中庭があったが、建物の外からは見えない
 ようになっていた。 その建物の、中庭より前は一般研究室で、奧が特別研究室とされ
 ていて、その特別研究室には所長以下数名の研究員しか入れなかった。 私などは最初
 は近づく事も許されなかった。 時おり陸軍省の軍人が出入りしていたが、それがどの
 程度の階級の者だったのかは私には判らなかった。 私が薬研でやらされていたのはマ
 ウスを使った神経興奮剤の臨床実験だった。 今で言うなら覚醒剤の一種で、戦場での
 兵士の意気高揚と恐怖心の除去を目的としたものだった。 第一次大戦中はアヘンを使
 っていたが中毒性が強いので、我々は中毒性の少ない、そして、持続時間の長いものを
 研究開発していた。 第二次大戦末期には我々の開発した覚醒剤を軍人、いや、赤紙で
 徴兵された兵隊達に常用させるようになっていた。 国としてそうでもしなければあん
 な過酷な戦いに通常の神経を持った人を送り出す事は出来なかったのだ。 陸軍省とし
 ては兵隊はロボットでなければならなかったのだ」
 

僕達でさえ、そんな話を聞く事がある。
海軍の特攻隊員に麻薬を服用させ、死への恐怖を薄れさせて敵艦に突入させたとか、弾の
無くなった兵士に薬を与えて銃剣で集中砲火をしてくる敵軍の前に出し、突入させたとか。
今は麻薬廃絶を叫んでいる国家が当時は軍事という勝手な大儀の元で使っていたのだ。

「私が薬研に入って最初の半年はマウスばかりを使っていたが、その臨床例がある程度ま
 とまった頃、南教授が私を特別研究室に呼んだ。 今まで近寄る事も出来なかった扉を
 開いた時、私はその場に立ちすくんだ。 そこでおこなわれていたのは……私達がマウ
 スや他の動物を使っておこなっていた研究を………人間を使ってやっていたのだ」
僕は話の脈絡から、予測はしていたが、やはり衝撃的な内容が出てきた。
何も言葉が出ない。
「そこでは人間の生体を使って、あらゆる薬物実験から反射実験、生体における筋肉組織
 の活動の実験、骨格、関節、血液などの人間という個の生命の真髄を究め尽くさんとす
 る、多種多様な実験がおこなわれていたのだ」
意気教授の声が少し興奮したかのようにうわずり、早口になってきた。
「主に麻薬による中枢神経の興奮の様子と人体に与える影響。 中毒症状の個体調査。 
 死に至るまでの急性中毒を起こした人間の解剖調査。 それら薬物による研究の他に、
 直接的な人体実験として、生きている人間に麻酔をかけ、皮膚と筋肉を切開し、神経を
 露出させ、そこに電極を当てて反射の構造を調べたり、筋肉組織に直接電流を流して収
 縮や反応を調べたり、また、脳組織に直接刺激を加える事によって身体にどのような影
 響がでるか等の実験を繰り返していた。 身体中を細かく、何百何千にも切り分けられ
 標本になっているものもあった。 生体実験、生体解剖がその特別研究室で行われてい
 たのだ。 マウスやモルモットで得たデータはそのまま人間には適用出来ない。 人間
 そのものでデータを集めた方がずっと正確な研究成果が得られるからだ」
「あ……あの、ですね」
僕は壱岐教授がひと息入れた合間を突いて声を出したけど、うわずって、なめらかな言葉
にならなかった。
「生体実験というからにはですね、その、生きた人間が要る訳ですけど、その人間はどこ
 から……」
広都大でそんな事がおこなわれていたという記録は残っていない。
戦時中、本土から遠く離れた満州で極秘におこなわれていた細菌研究でさえも現在では白
日の下に晒されているというのに、国内の、それも一般の大学でおこなわれていた事が今
まで全く暴露されなかったという事が信じがたい。
「日本人ではなかった。 私のような下っ端の研究員はその人間達と直接話をする事は禁
 じられていたのでよく判らないが、彼らの顔つき、言葉などから、大陸で捕虜となった
 八路軍の兵士や抗日レジスタンスの満州人ではなかったかと思われる。 それに、ロシ
 ア人やモンゴル人もいた。 当時、大陸では旧日本軍、関東軍が侵略を押し進めていた。
 その時に日本軍が捕虜とした敵兵や逮捕したレジスタンスを密かに物資として日本に送
 り込んでいたのだろう」
「何人くらいいたんです?」
「常時三十人くらいいたと思う。 特別研究室の一番奥に窓のない留置場が十室ほど並ん
 でいてその中に入れられていた。 人数が少なくなればすぐに補充されていた」
「でも、生きている人間を大陸から連れてきたり、こんな人口密集地にある広都大なんか
 に運び込んだりしていたら、いくら極秘にしていても人目につくでしょう。 学生だっ
 てたくさんいたんですから」
「彼らは人間としては運ばれてこなかった。 物として木箱に詰められ、梱包されて運び
 込まれて来た。 口の中に水を含んだ綿花を詰め込まれて運ばれて来るのだが、当時、
 大陸から内地までは空路を使ったとしても何日もかかった。 特研に運ばれて来た時に
 はすでに死んでいたり、生きていても、瀕死の状態だった。 そうして運ばれた人間は
 特研の治療スタッフによって手厚い治療と看護を受け、体力回復に専念させられる。 
 健康な状態の人間から得たデータが必要とされたからだ。 そして通常の体調に戻った
 者を年齢、性別に分けて留置場に入れておいた」
「年齢性別って、女性も入っていたんですか?」
「もちろんだ。 男女半々というところだった。 年齢的にも下は幼児から上は七十歳を
 過ぎた者までいた」
「なんと……」
完成薬物を使用する側にあらゆるタイプの人間がいるのだから被実験者にもあらゆるタイ
プが必要となるのは当然ではあるが、女性や子供を使っていたというのはあまり非道な。
「その人達は全員実験材料になったんですか?」
「そうだ。 大きく分けてふたつの実験に分類された。 ひとつは人体の構造を調べるた
 めのグループ。 生体実験や生体反射、反応の実験をされたのはこのグループだ。 も
 うひとつは、それらで得たデータを元にして実際に調合された薬剤を試すグループだ。
 前者は悲惨だった。 いったん実験のために留置場を出されると、解剖に賦され死んで
 いくだけだった。 私も何度か立ち会った。 あれは恐ろしい光景だった。 だが当時
 の私達は冷静冷徹だった。 その者達がいくら死んでも、軍に要請さえすればいくらで
 も補充が出来たのだから、私達はその人達を人間とは思わなくなっていったのだ。 マ
 ウスやモルモットのように、実験材料としか見えなくなっていったのだ」
時代が時代だったし、国家全体が狂気に走っていた時だったから、命令の元にしかたなか
ったとも言えるのだけれど。
中浜は前に、解剖実習の時に教材として供された遺体を見て、その人間の生前を思い、哲
学していたが、壱岐教授の話をどんな思いで聞いているのだろう。
人の死を考える事が出来るというのはむしろ幸せなのではないだろうか。
「……それで、もうひとつのグループはどうだったんですか?」
「もうひとつのグループの中では、さらに一班、二班と分けられていた。 ひとつは薬事
 班と言って、薬物による一時的な神経高揚や筋組織の変化などの運動能力の状態を調べ
 る班。 もうひとつは育成班と言って、やはり薬物を使っていたが、筋力、骨格、神経
 等を根本的に増強しようという研究をしている班だった。 こちらは主に成長期にある
 子供や赤ん坊が使われていた。 成長過程において人間はどこまで体質改善が出来るか、
 あるいき、外的な影響において個体変化がどこまで起こり得るかを実際にその過程にあ
 る少年や幼児を使っておこなわれていた。 君の言う超人研究とはこの事だろう」
まさにそこだ。
これまでに中浜から聞いた限りの医学知識では越田の超人性はドーピングのような一時的
な興奮状態や筋力増強では決してあり得ないものだと判っていた。
もっと根本的な、体質を個体変化のレベルにまで改造してしまわないと出来得ないものだ
と考えていた。
それを、薬研では成長期にある少年や幼児を使って実験をしていたというのであれば、そ
の出来得ない事をやっていたという事になり、可能性が大きくなるという事ではないか。

いよいよ核心に迫ってきたのだ。


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憂想堂
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