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〈3〉



広都大学は創立90年になる私立の総合大学だ。
明治期に当時の政治家であり法学者であった六道郷之介が広都学舎として興し、多く
の政治家や学者を輩出している。
六道記念館は大正六年に死去した六道郷之介の功績を記念して同九年に大学構内に建
てられた多目的講堂である。
赤レンガと銅板を多用したゴシック建築は美術的価値も高く、長く広都大学の象徴と
して親しまれ続けてきた。
この六道記念館の前に立つ事を夢見て広都大を受験する学生も少なくないのであるか
ら、取り壊し計画なんかが立てられたら猛反対する連中が出てくるのは当然の事だっ
た。
在学生のみならず、卒業生や知識人、近隣住民や、かなりの地位の政治家までもが出
てきての反対運動となったのである。

「もう入れるみたいよ」
六道記念館の前に立った宣子は僕と手をつないだままで言った。
昨日の事件直後は入り口にロープが貼られ、警官が見張りに立ち、誰も入る事が出来
なかったが今日はもうそれらは外されている。
やはり僕たちと同じように話題の事件現場を見学に来ている連中がうろつき、出入り
していた。
「見せ物小屋みたいだね」
「ああ……」
君もそのひとりだろと言いかけたが、好奇に輝いているその目を見て言うのをやめた。
僕たちはエントランスに入り、中央ピロティを抜けて大講堂に入った。

装飾レリーフに彩られた漆喰壁に御影石の腰貼り、磨き込まれたフローリングの床に古
びた木製の長椅子達。
天井には無数の梁がめぐらされていて、その間に真鍮製の照明器具が埋め込まれている。
アーチ状に作られた窓は講堂内の容積の割りには小さく、光がそんなに入ってくるもの
ではなかった。
これを落ち着きのある空間と評する人達もいるけれど、僕にはどうにも陰気くさくて、
古びた教会のようないかめしさを憶えて好きではなかった。

正面に演台がある。
昨日あの上で越田は驚異的な怪力を見せた。
その下投げ落とされ、大破したグランドピアノはもう片づけられていた。
「すごいね、床板が割れてる」
「そりゃ、あれだけの重さが落ちたんだから、この古さにしてはよくもった方じゃない。
 床板が完全に崩れ落ちても不思議じゃないし」
「下敷きになった人達、よく死ななかったね」
「下敷きっていっても、弾き飛ばされたって感じだからね。 鍛えてる連中だったし、
 それにしても意識不明の重体なんだろ。 ひどい目にあってるよ」
「全身打撲に骨折、内臓破裂って新聞に掲載だって。 ゆうべ、私のお父さんがね、グ
 ランドピアノ持ち上げた人もすごいけど、このふたりも超人的な生命力してるなって
 言ってた」
「え? いつ?」
「ゆうべ」
「その事が新聞に載ったの今朝の朝刊だろ?」
「知らなかった? 私のお父さん、朝陽新聞の社会部の編集局長なんだよ」
「ふーーん」
確かに新聞社の社員なら当事者と警察の次に事件の内容を知る事が出来る。
宣子の家族の事なんて今まで聞いた事がなかったけど、随分便利な父親を持っている
もんだと感心する。
「……床にまだ血の跡が残ってるよ」
「外傷は無かったみたいだけど、かなり口から血を吐いたからね。 鼻からも吹き出
 してた」
「やめてよリアルな言い方」
「めし食った後だからいいだろ」
「もどしそう」

ピアノの残骸はきれいに片づけられていたが、その床にはまだ黒い血の跡がふき取ら
れずに残っている。
僕はしゃがみ込んでその跡を眺めた。
よほど大量に吐いたと見えて、血の跡は割れたフローリングの裂け目にまで流れ込ん
でいた。
その亀裂にそって目線をやると、僕の目の前でやはり同じようにしゃがみ込んでフロ
ーリングの亀裂を眺めている男の目線と合った。
「やあ」
唐突にその男が声をかけてきた。
「は?」
見覚えが無い。
年の頃なら30前後。
やぼったいスーツ着てヨレの入ったネクタイをしている。
学生じゃない。
「君、昨日この場にいたね。 事件の前からいた?」
「は?」
「あ、失礼。 私、こういう者だけど」
その男は名刺を出した。
見ると、練馬警察刑事課捜査一係、浦賀宣彦と書いてあった。
「刑事? 本物の?」
「本物」
「普通、こういう場合は警察手帳を見せるものじゃないんですか?」
「そうなんだけど、周りに見物人がたくさんいるから、はばかられるかと思ってね。
 ほら」
と言って浦賀刑事は内ポケットからからちらりと黒革の手帳を見せた。
僕は今までにそれの実物を見た事がなかったので、本物かどうかは判らなかったけど
一応それらしく見えた。
「その刑事さんが何をまた」
「二人も重傷者が出ている傷害事件だからね、これは。 しかも犯人は捕まっていな
 い。 我々の出番なんだよ」
「はあ、それはまた」
ご苦労さん、と言いかけたが、その犯人というのが僕の友人なものだから、あまり手
放しで歓迎出来る訳でもない。
「昨日、緊急連絡を受けて現場に駆けつけた時に君の顔を見て憶えていたものだから」
そういえば、越田が騒ぎに紛れて姿を消した後で救急車と一緒に警官や目つきの悪い
男達が何人かやって来ていた。
僕はけが人が運び出されるまだ、そのまま野次馬であったのだ。
「職業柄、人の顔は覚えている?」
「そうだね、あの時集まっていた連中は皆好奇心丸出しの顔していたけど、君だけが
 呆けた、いや、そんな馬鹿なって顔してたから憶えている」
「………」
そんな顔をしていたかもしれない。
自分のよく知っている人間が、あんな事を出来るはずの無い人間があんな事をやった
のだから、そんな馬鹿なって顔になるのは当然だっただろう。
「あの顔はこの演台で起こった事を否定している顔だった。 という事は、否定する
 だけの根拠を君は持っているという事なのかもしれない」
「根拠ねえ……」
越田にあんな事が出来る筈がないという根拠はある。
越田を知らない連中であるなら、越田が怪力男であったという事で納得するのだろう
か。
「ちょっと、何をふたりでしゃがみ込んで顔つき合わせてるの。 カエルの相撲みた
 いに」
宣子が顔をつっこんで来た。
「カエル!?」
「あ、いや、これは……」
僕たちは苦笑しながら立ち上がった。
「この人、刑事さんらしいんだけど」
「聞いてた」
「どうも、浦賀です」
「どうも」
宣子はふんっとした表情で応えた。
しかし、顔には好奇心がみなぎっているようだ。
「ちょっと話を聞かせてもらってもいいかな」
浦賀刑事はじつに職務質問らしからぬ言い方をした。
木訥な性格なのかもしれない。
「いいけど、その代わり、後で私達の質問にも答えて」
と言った宣子の言葉に一瞬目を丸くしながらも浦賀刑事は
「は、まあ、さしつかえのない事なら」
とかわして応えた。
「じゃ、ここに座ろ」
僕たちは宣子に引っ張られて、講堂の両隅に寄せられていた長椅子に並んで座った。
「それじゃまず、君たちの名前と学部、学年を教えて」
「事情聴取みたいね」
「そうなんだろ」
「いや、たんなる参考のための質問だから」
「いいけど。 私は山崎宣子。 文学部、国文科の三年、二十歳」
「御堂鉄夫、同じく国文三年、二十一歳」」
「歳が違うね」。
「御堂は一浪してるから」
「よくある話だね」
「気にしてませんが」
「ま、それはいいとして、まず、君達ふたりとも昨日この現場にいた?」
「私はいなかった」
「僕はいた」
「じゃ御堂君、まず、その時の状況を詳しく話してみて」
「それ、昨日、この場にいた人間に聞いてたみたいだけど」
浦賀刑事の顔は覚えていないけど、数人の警察関係者らしいのが手当たり次第に
その場にいた連中に質問していた。
「出来るだけ情報たくさん集めた方がいいからね」
「どこから話そうかな、えーーと、まず、僕とあの越田は高校時代の同期で、や
 つもやっぱり一浪して一緒にここに入ったんですけどね」
「ほう……」
僕は越田との関係と昨日ここで見た一部始終を詳しく話した。
別に警察に前面協力しなければならないという気にはならなかったけど、話して
いるうちに昨日の光景が蘇り、熱がこもってしまっていた。


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憂想堂
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