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〈12〉



僕の手のひらに一本の透明なアンプルが転がっている。
ラベルも無く、文字も記号も書かれていない、何の変哲もないただのアンプルだ。
「これがアンフェタミン?」
「医師でもない者が手にするだけで犯罪になる非合法薬や」
中浜が医局から持ち出して来てくれたものである。
こんなもの、いかに医学部の学生であっても簡単に持ち出せないだろうと思うのだが中浜
は平気な顔をしている。
よほどうまくくすねてきたのか、それとも医局の管理がずさんなのか。
「夕日化成の東口選手は、これとなんらかの化合物を飲んで背か最高記録を出した訳ね」
あいかわらず、宣子は僕にぴったりとくっついている。
「これは飲むんじゃなくて、静脈注射するんや」
「注射? あれ? おかしいな」
「何が?」
「ほら、越田君、アンプルに入っていた変な薬を飲んでたって言ってたじゃない。 あれ
 は、そしたらアンフェタミンじゃなかったって事?」
「さあ、どやろ? これにしても飲んで飲めん事はないけど、効果の出方は遅くなるから
 なあ。 それに、これを飲んでも注射しても悪寒発熱、全身の震えなんかは起こらへん
 で。 反対に、爽快になる」
山本えい子の証言では、その上に身体中がひきつるように痛くなるって言っていた。
とすれば、その症状はアンフェタミンのものとは思えない。
「壱岐教授の薬ってのは越田とは関係なかったのかな」
「そら判らんな。 はたして越田の飲んでた薬が超人薬だったのかどうかもまだ判らへん
 し、もしかしたら本当にビタミン剤やったんかもしれんしな。 酒やったんかも知れん。
 身体がぶるぶる震えるていうのはアル中の症状や」
「まさか、アル中にあの力は出ないだろ」
「そやから、それ以外の何らかの薬品投与か、外科手術を受けてたと考えられる」
「壱岐教授の線は消えてない訳ね」
「そや、それに関して実はな、昨日、医学部の長老でな、今、解剖学の講習受けてる山神
 教授ってのがいて、その人に昔の超人伝説の事を聞いたんや」
「出たな、超人伝説」
「やっぱりあった訳?」

今日は中浜がわざわざ文学部までやって来て僕達を呼び出し、自分のアパートにまで引っ
張って来た。
六畳間とキッチンだけの狭い空間に本が溢れている。
医学書ばかりではなく、世界文学全集や推理小説まである。
雑誌なんかも結構読んでいて、医学馬鹿ではない事を表している。
そんな部屋に僕達を招き入れたのは、持っているだけで犯罪になる非合法薬を見せるため
と、部外者に聞かれたくない話をするためだ。

「山神教授は長老だけに、やっぱりよう知ってたよ。 しかも、医学部の権力構図の外に
 いてるさかい、喋りやすい立場やし」
「権力構図の外って、どういう事?」
「やっぱり壱岐教授が絡んでてな。 越田が言うたように広都大医学部は今から70年前に
 薬物研究所として発足したんや。 当時、軍事目的で細菌研究や毒ガス研究が盛んにお
 こなわれ始めた頃やな。 戦時中、日本の関東軍が満州で細菌研究の為に731部隊っ
 ていうの細菌研究部隊を置いたやろ。 あれし同一線上にある作戦として、軍部からの
 依頼で、戦場における兵士の戦意の高揚と体力増強を目的とする薬品の研究と生産をす
 る為の組織として設置された。 ほんまは731部隊みたいに完全な軍属として置きた
 かったらしいんやが、当時の薬事研究は民間に優れたものがあったから、あえて軍部に
 取り込む事はせんと大学に研究依頼という形になったらしい」
「戦闘機の製造を民間企業に委託したようなものか」
「そうや。 研究開発費をけちるっていう意味もあったんやろな。 それで広都大薬物研
 究所は発足し、軍のための研究を始めた」
「そして10年目でその研究は成功したのか」
越田が言っていた事だ。
60年前という事は終戦の直前になる。
「そういう訳なんやけど、そこに至るまでに、いろいろと問題があってな。 それが伝説
 なんていう古めかしい言い方をされている由縁なんやけど」
「人体実験とかしてたとか」
「やってたらしい」
「まさかあ?!」
「広都大でか?」
731部隊が生体実験をやっていたというのは有名な話だ。
当時の資料も公開されていて、それなりの批判もされている訳だけれど、あれはあくまで
悪評高い関東軍の一部隊であったから、そんなひどい事をしていても、軍がやっていたの
だからと変に納得したりするのだが、軍に属していない、しかも教育の場である大学内で
そんな事が行われていたというのは意外であるし、驚きでもある。
「誰を実験材料にしていた?」
「そこまでは山神教授にも判らんらしい。 山神教授がこの大学に講師として入ってきた
 頃には研究はかなり進んでたらしくて、関係者以外は全てオフリミットやったそうや。
 ただ、夜中に密かに、物資と称して運び込まれる人間の姿を見たり、研修用の死体解剖
 実習以外の人骨や臓器が廃棄されるのを見たりしたそうや。 そやから普通に想像力の
 働く者やったら、これは人体実験、生体実験をやっているなと思うわな。 そう思うた
 のは山神教授だけやなくて、他にも当時の研究生や学生達も思ってたから、薬研では生
 きた人間を使って研究をしているという噂が立ったんやな。 けど、軍部の絡んでいる
 事やから戦時中でもあって、表だっては言えなかったから、結局、噂程度にとどまった。
 それが伝説という形になったんやろな」
「戦時中ならそんなもんなんだろな」
言論統制や思想弾圧等を国家的にやっていた時代だから、まかり間違っても軍関係の秘密
を公開したり出来ない。
当時は命にかかわる問題だったのだろう。
「そうこうしていいるうちに、終戦間近になり国家総動員法が発令されたり、銃後の備え
 なんて阿呆な事をやってる時に、ついに薬研での研究が完成して、その成果が発表され
 る事になった」
「発表? 超人が出来た事を発表したのか?」
そんなものが発表されていたのなら、今でも記録が残っている筈だし、歴史に残らない訳
がない。
それなのに、そんな話は聞いた事がない。
何故残っていないんだ?
「その発表ってのが、ほら、このあいだ越田が車ひっくり返したあの旧本館裏の倉庫で、
 あそこに研究員と軍関係者、それに当時の内閣の連中とかを集めて、それ以外の者は全
 てオフリミットにして、極秘裏に発表されたんやそうや」
「山神教授は見ていないのか?」
「関係者やなかったからな。 ただ、ただ事でない連中が集まって、完全に締め切った旧
 本館で何やらやっていて、その連中が出てきた時には、皆、驚愕の表情をしてたそうや。
 信じられんものを見たていう顔を」
もし、その時に越田のような力を身につけた超人がそれを見せつけたとしたら、いかな修
羅場をくぐり抜けた軍人であったとしても卒倒するくらいに驚いておかしくないだろう。
「超人研究はその時に完成したって訳なんだ」
「山神教授は、それまで薬研でやっている研究は、たんに通常の人間の体力をいくらか向
 上させる程度のものと思っていたから、まさか人間の能力を大幅に超えた力を作り出す
 なんて想像もしなかった。 だからその時点でのものが完成型だとかいうのは判らなか
 ったそうや」
「極秘裏にって言っても、山神教授がある程度知っているという事は、その内容はどこか
 から漏れてきた訳?」
どこの世界にも口の軽いやつはいる。
秘密にしたい内容が驚くべきものであればあるほど、漏れるザルの網が多くなるものだ。
「そこで話題の壱岐教授が登場する」
「え? 壱岐教授が当時の関係者だった?」
「そうなんや。 壱岐教授は当時はまだ学生やったんやけど、化学に関しては天才的な頭
 脳を持っていたそうで、それが認められて薬研のメンバーに加えられてた」
まさに超人研究の当事者だった訳だ。
ますます核心に近づく。
「………その当時の壱岐教授の口から漏れたのか?」
「さすがに戦時中にそんな事は漏らせるはずはなかったけど、その発表があって一ヶ月後
 に終戦になった。 軍部は解散になって、それまでの統制の全てが無くなった。 薬研
 はそのまま医学部として残り、壱岐教授も山神教授もそのまま広都大医学部に残った」
「そして、喋った訳か」
「具体的には喋らなかったらしいけど。 漏れてきた内容ってのは」
「痛てっ」
「なんやっ」
宣子が後ろから乗り出してきて、僕の肩の上に肘を落としてしまったのだ。
「ご、ごめぇん」
「なんだよ、もうっ」
「だっていよいよ核心なんだもん」
「気がそがれるな、まったく。 で、その内容は?」
越田も気をそがれたような顔をしていたが、あらためて内容をまとめようとする表情にな
った。
「その時の発表ってのは、十八歳の少年と九歳の男の子が、それぞれ信じられないような
 な力を発揮して、しかも、そのふたりは銃で撃たれても平気でいたんだそうや」
「!?、銃で打たれても平気?? そんな馬鹿なっ!」
「壱岐教授がそう言ったそうだから本当やろ。 当事者やったし、目撃者なんやから」
「けどな、銃弾を跳ね返すって事は、皮膚が鋼鉄より硬いって事だぜ。 そんな事はあり
 得ない」
「跳ね返したとは限らんやろ。 反対に筋肉組織が弾性の強い強化ゴムみたいに軟化した
 としたら着弾の衝撃を吸収してしまって破壊力を無くしてしまうとも考えられる」
「しかし………」
もしそれが本当だとしたら、これはとんでもない研究成果じゃないか。
銃で撃たれても死なない人間。
通常の限界をはるかに超えた力を発揮する人間。
そんな人間が簡単に作り出せて軍隊を組織出来たとしたら、軍事上の戦略は大きく変わる
だろうし、世界制覇も夢ではない。
そして、当時の日本軍はそれを手に入れていた!
もし、戦争が後一年か二年続いていたとしてら、もしたかしら第二次大戦の戦勝国は日本
であったかもしれないのだ!
「壱岐教授はその事に関して、後々にでも何の発表もしていないの?」
「よほど研究内容が非人道的やったんと違うか。 山神教授にちらりと洩らした以外はい
 っさい口を閉ざしたままやったそうや」
「うーーーん??」
その気になって発表すれば、現代でも大変な反響があるだろう。
世界の軍事バランスが覆るかもしれないし、核軍縮も簡単にやってのけるかもしれない。
巨大な富も栄誉も思いのままだ。
歴史に永遠に名が残る。
壱岐教授もそんな事は当然判っていただろう。
それでもなお、今まで頑なに朽ちを閉ざしているという事は、よほど研究の過程において
人道上犯してはならない事をしてしまっていた為に、後世の批判を恐れたのか?
それとも、当時まだ学生であった為に、研究の本質的な部分にまでは触れていなかったか
らなのか?
「けど、やっぱりところどころから洩れてきて、それがこの広都大の超人伝説になったん
 やろう」
「そんな伝説で残るくらいだったら、どうして誰も追求しなかったの?」
宣子も同じ疑問を持っている。
完成していたのならも後進のだれもがそれを世に出すチャンスはあるのだから。
「その研究成果ってのが、あまりにも常識からかけはなれていたからやろ。 夢物語みた
 いにしか受け入れられなかった。 そやから伝説や」
そうかもしれない。
僕にしても実際に越田のあの力を見ていなければ、冗談で笑い飛ばしているところだ。
「壱岐教授以外の旧薬研のメンバーは今どうしてるの?」
「終戦と同時に皆大学を離れて、経歴を隠して表立つ事の無い生活をしてるそうや。
 よほどお天道様に顔向けできん事しとったんやろ。 それに、当時の研究者達ももう随
 分なお年寄りやし、生き残ってへんのと違うか」
「壱岐教授はまだ学生だったし、直接手を汚していなかったから大学に残れたんだ」
宣子は勝手に壱岐教授に助け船を出すような言い方をして胸を撫で下ろしている。
自分と同じ大学にいた教授に汚れ役はやってほしくないんだろう。
「そうなると、東口選手が使った薬は、その超人薬かもしれないって疑いが出てくるな。
 戦後も壱岐教授は密かに研究を続けていて、東口選手に使ってしまった。 それまで隠
 し続けていたのに、魔が差したか、研究者として実践してみたかったか」
その研究が、過程はどうであれ結果は素晴らし過ぎるものであるから、研究者としては、
そのまま眠らせ続ける事にすさまじい忍耐を要しなければならなかったのかもしれない。
非人道的な過程さえなければ堂々と世に発表したい。
そんな気持ちが心の奥底にこびりついていて、ある時、それが堰を切った。
「きっと壱岐教授は東口事件まで超人化研究を続けていたんだろう。 60年前のものとは
 ずばり同じじゃないにしろ、その当時、研究者達のやっていた事を垣間見ていたし、化
 学式も憶えていた。 それらを元に戦後ひとりで研究を続け、そして出た答えがマラソ
 ンの世界最高記録だったんだ」
「たぶん、そんなとこやろな」
中浜も同じ考えみたいだ。
が、問題はここからなのだ。
「そして……、その研究を誰かに伝えた………」
「奥村か」
「臨床神経学研やからな」
「そして、越田が実験台になった」

ほぼ推理の筋道は立った。
僕達は顔を見合わせた。
「そうなると、越田を見つけるための次の行動は?」
「奥村を締め上げる」
「強硬手段に出たってだめだと思うよ」
「じゃ、どうするよ」
「私が近づいてみる」
「宣子が行ったって喋るとは思えないけど」
「女性には字を性の武器もあるし」
「え? 女? どこに?」
「何よっ」
バシッ!
ギャッ!
ドテッ!!
僕は腰掛けていたスツールから落ちた。


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憂想堂
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